<近と離>

それから数日

千早は殆ど普通に歩けるようになっていた。

以前の失敗を繰り返さぬようプロデューサーに会う前はシャワールームで体を流すようにした。

ノックをされても返事が出来ない自分の代わり自分からプロデューサーの病室を訪ねるようにした。

手帳を返しまたその楽譜を広げて自分のポータブルプレーヤーでその曲を一緒に聴いたりする時間が堪らなく楽しかった。

プロデューサーの記憶は戻っていると言うよりも新しく記憶されている方が強いように思えた。

今日もいつもの様にプロデューサーの病室を訪ねた。

コンコン

とノックをするといつもの返事が返ってこない。

千早「?」
不思議に思いドアを開けるとプロデューサーは病室に居なかった。

辺りを見回してみると荷物が置いてある事からどうやら退院したということでは無いらしい。

気になって窓から外を覗きこむと喫煙所でプロデューサーは見つけられた。

プロデューサーは煙草を咥えながら手帳を片手にじっと見つめていた。

懐かしい光景…。

いつも千早がレッスンを終えるとプロデューサーは同じ事をしていた。

習慣が戻って来ていると言う事だろうか?

千早は急いで喫煙所に向かった。

千早が近づいてもプロデューサーは気付かないようでそのまま手帳を見つめていた。

千早がクイクイと袖口を引っ張るとやっと気付いたのか慌てた様子で煙草の火を消した。

千早P「あぁ、ごめん。気付かなかった」
それを聞いて千早はクスリと微笑んだ。

千早P「…これも癖だった?」
その言葉に千早は頷いた。

千早P「そっか。思い出した訳じゃないんだけどこうしてるとなんか落ち着くんだよね。職業病なのかな?」

千早「…『そうなのかもしれませんね』」

千早P「困ったもんだね。そうそうこの前聴かせて貰った<蒼い鳥>なんだけど今楽譜を見てたんだ」
プロデューサーは千早にも見える様に手帳をずらした。

千早P「いい曲だね。懐かしい気もするんだ、これ。これと<目が逢う瞬間>はなんとなくだけどいつも聞いてた気がする」
うーんと考えるプロデューサーに千早は一枚紙を差し出した。

千早「…『目が逢う瞬間は私歌ってませんよ?』」

千早P「そうなんだよねぇ…うーん。カバー曲の<鳥の詩>も知ってる気がするな…頭が痛いな…」
心配した千早が駆け寄るとプロデューサーは違う違うと首を横に振った。

千早P「実際に頭が痛いんじゃないよ、思い出さなきゃいけない事が沢山あるんだなって」
千早P「きっと忘れちゃいけない事もこの中にあるんだと思う」
キュッと千早の胸が締め付けられる思いがした。

プロデューサーの前向きな態度はいつも千早を励ましてくれていた。

その態度が今も傍にあると言う事が千早には嬉しい事だった。

千早P「お医者さんにはここ最近の事が思い出せないのは一時的な症状だろうって言われてるから」
千早P「きっと思い出せると思うんだ。だから千早の声が取り戻せるようにこっちも頑張っていこう!」
プロデューサーの言葉に千早は大きく頷いた。

千早P「千早の声聞いてみたいな」
ポツリと呟いたプロデューサーの言葉に千早の頬がボッと紅くなる。

千早P「<蒼い鳥>とか<鳥の詩>自分で歌ってもなんだかイマイチでね」
プロデューサーは照れながら話した。

そう言うとプロデューサーは鳥の詩を口ずさみながら千早と一緒に歩き出した。

消〜える飛行機雲〜 僕たちは見送った〜♪
眩しくて〜逃げた〜 いつだって弱くて〜♪
あの日から 変わらず〜 いつまでも変わらずに〜♪
い〜られなかったこと〜 悔しくて 指〜を〜離〜す〜♪

見ると右手の指でリズムを取っていた。

病室に戻るとプロデューサーは何時もの様に窓に向かう。

外を一瞥してから戻ってくる。

千早P「相変わらずでね…」
プロデューサーは自分でも分かっていないようだった。

病室に戻ってきたからと言って特に何があるわけでも無い。

ただ歌を歌えない千早にとって新しい憩いの時間となっていた。

一緒に居られればそれだけで楽しく過ごす事が出来る。

そんな掛け替えの無い時間だった。

声が出せればいくらか話しが出来るのだろうが、寧ろ口下手な千早にとっては有難い事だったかも知れない。

何時もの様に夕食前になって自分の病室に戻る。

夕食を終え一人でボーっと座っていると窓から鼻歌が聞こえてきた。

気になって見てみると声の主はプロデューサーだった。

左手で頬杖をつきながら右手でリズムを取っている。

目を瞑って歌ってる所を見るとご機嫌な様子だった。

ベッドに戻りプロデューサーの鼻歌を聴いているとウトウトと眠気が押し寄せてきた。

翌日の朝

女医「検診の時間ですよ〜」
女医が千早の部屋に入ってくる。

いつもの様に体温を計り聴診器をあてて体の具合を調べる。

女医「声は出ませんか?」
女医の言葉に千早は頷いた。

女医「う〜ん、如月さん外傷があるわけでも無いし明日にでも退院して構いませんよ」
女医「声が出ないのは少し不便でしょうし、通院の必要はありますけどね」
そう言うと女医は一枚の紙を差し出した。

女医「こちらの書類に記入をして事務室窓口に提出してください」
女医「今すぐでは無いですが病院に長居は無用ですから、決まったら教えてください」
相変わらずさばさばした口調で淡々と語る女医から書類を預かる。

お礼をして女医が出て行くのを確認すると千早は携帯を手に取り外に向かって歩き出した。

美希のプロデューサーに退院することをメールで伝えるとすぐに病室に戻った。

いつもの様にシャワーを浴びて髪を梳かすと病室から筆談具を持ち出しプロデューサーの病室をノックした。

千早P「どうぞ」
返事を待ってドアを開ける。

千早P「千早、おはよ」
いつもの様にプロデューサーは笑顔で挨拶をしてくれた。

千早も小さく頭を下げる。

千早P「今日は早いね」
その問いに千早はペンを走らせた。

千早「…『明日、退院する事になりました』」
紙を受け取るとプロデューサーの顔はパッと明るくなった。

千早P「本当?おめでとう!」
千早はその言葉に少し罪悪感を感じた。

自分のせいでこうなってしまったのに自分の方が先に退院してしまう。

申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

千早P「少しの間、寂しくなるね」

千早「…『毎日でも面会に来ます』」

千早P「あはは、ありがとう。でも無理はしないでよ?自分の事も考えて来れる時に来てくれればいいよ」
千早はフルフルと首を横に振った。

千早P「千早は聞かん坊なんだな」
そう言ってプロデューサーはあははっと笑った。

千早P「俺も頑張らないとなぁ」

千早「…」

千早P「ごめん千早。来てもらってなんだけどこれから検査なんだ。なんでも後遺症が残るような傷が無いかぁとか」
千早P「何度かやってるんだけどね。退屈な上にえらい時間が掛かるんだ。数時間掛かると思うから千早は自分の事してて」
千早P「退院おめでとう」
最後にプロデューサーはニコリと微笑んだ。

千早はそのまま邪魔になるまいと病室を後にした。

まとめる荷物も少ないので片付けはあっという間に終わってしまった。

やる事が無くなってしまったのでベッドの上で音楽を聴きながら今までの事を思い浮かべていた。

事故の事、手帳の事、病院内での事、美希達の事、見舞いに来てくれた人達の事、プロデューサーの事…

短い期間で色々な事が起きていた。

声が出ない自分はこれからどうなるのだろうと思うと不安に駆られた。

肩を竦めてベッドの中に入っているといつの間にか眠りに落ちていた。

千早が目を覚ますと辺りはすっかり陽も落ちていた。

窓から見える空には幾つか星も瞬いている。

ふと喫煙所を見るとプロデューサーの姿があった。

消灯時間も過ぎているであろうこの時間に煙草を吸いながら電灯の明かりで手帳を見ている。

しばらくすると手帳を閉じ煙草を消して院内に戻ってきた。

退院する前にどうしてもひと目プロデューサーの顔が見たくなって千早は病室の外に出た。

プロデューサーが戻ってくると手を振ってみる。

千早P「千早?眠れないの?」
千早はフルフルと首を振った。

千早P「とりあえず入る?」
病室のドアを開けて一緒に入る。

プロデューサーは窓を一瞥してベッドに腰掛けた。

千早P「どうしたの?」
千早は携帯のメールの画面を呼び出した。

千早P「ん?」

千早「…『なんだか名残惜しくて、一緒に居ちゃいけませんか?』」

千早P「それは、構わないけど…見回りも来るからそれまでには戻るんだよ?」
千早はコクリと頷いてプロデューサーの横に座った。

千早P「なんだか緊張するな…」
千早はプロデューサーの横にピッタリとくっついた。

夜にもなると少し肌寒くなるのでプロデューサーの体温が感じられると少し落ち着いた。

千早P「退院したら何をするの?」

千早「…『まず、事務所に行きます。顔を出さないと…」

千早P「それもそうだね」

千早「…『それ以外は考えてません』」

千早P「そっか…色々あった…んだよね。少し気晴らししてくるといいよ」
優しい口調でプロデューサーは言ってくれた。

しばらく何も話さないまま沈黙だけが流れていく。

プロデューサーがチラリと時計を見ると午前2時を回っていた。

千早P「千早、そろそろ見回りの人が来るから戻りな」
千早は動かなかった。

千早P「千早?」
もっと一緒に居たかった。

これが最後じゃないのは自分でも分かっていたが急に寂しくなって瞳には涙が浮かんでいた。

でもどうしても病室を出たくなくて千早はプロデューサーの袖口を掴んでいた。

大切な人が離れて行ってしまう、そんな気がしてならなかった。

千早P「千早…」
プロデューサーは立ち上がると千早を引き寄せた。

その瞬間、滲んでいた涙が零れ落ちた。

千早「っ!?」
ギュッと抱きしめられる。

千早P「千早だけじゃないよ、名残惜しいのは。俺も同じ気持ちだよ」
千早はプロデューサーの胸に顔を埋めた。

千早P「でも今生の別れじゃない。いつでも逢えるよ、約束する」
プロデューサーの服が自分の涙で濡れていく。

千早P「だから、今だけ辛いの我慢しよう」
千早はプロデューサーの胸で何度も頷いた。

しばらくしてプロデューサーから離れた千早は携帯に文字を打ち込んだ。

千早「…『退院する時は教えてください』」
それを見てプロデューサーは微笑んだ。

千早P「勿論!一番に連絡するよ」
それを聞いた千早は翌日の午後、プロデューサーや看護婦達に見送られながら病院を後にした。

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